豊後森機関庫歴史館 開設に当たって

(豊後森機関庫歴史館 担当者よりひと事)

 こ こに紹介する機関庫歴史は、2002年11月15日に短編映画「時代(とき)の移ろい/機関庫物語」(豊後森機関庫保存委員会)を発表した当時、その中で 説明しきれなかったデータを同時にパネル化したものです。その製作時に資料提供して下さった方や、映画にかかわったほとんどすべての団体や個人名が、この 映画のエンドロールに全て記されています。(映画は今後DVD化も考えています)

 映画製作当時は保存委員会の皆さんからの資料提供はもちろんの事、それ以外にもネットで知り合った全国のSLマニアや鉄道研究家の皆さんから沢山の資料を提供して頂きました。

例 えば豊後森機関区のSL形式別/年代別配置両数や、宮の原線を走ったキハ07形がどの用にして生まれたのかとか、また機関庫物語に最初登場する8mm映像 には音がありませんでしたが、ネットで全国に呼びかけた所、マニアの方が数十年前の貴重なSLサウンドを送って下さいました。とてもありがたい事です。

 今の豊後森機関庫の保存がかなったのも、玖珠町民の力はもちろんの事ですが、全国から応援して下さったSLファンの力が大きいのです。私たちはその事を忘れてはいけないし、この貴重な資料を機関庫の活用に生かしながら大切に扱っていかなければなりません。

以上の理由から資料の出所等は可能な限り明記し、あとから追記することもあると思います。

※10年以上前から資料収集したデータは膨大であり、今後発表するパネル以外にも資料を少しずつ整理しこの場で発表していきますので、興味ある皆さま方、気長にお待ちくださいませ。

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豊後森機関区開業45周年誌・豊後森機関区開業50周年誌より 

豊後森機関庫は宮原線の開業で活気づく。

戦争終了後、我が国は悲しみをバネに、急速な勢いで戦後復興を果たしていった。同時に豊後森機関庫も繁栄の時を迎える。宮原線の復活もあり、豊後森機関庫の配備車は25両、職員は217名が勤務、大分、鳥栖間の中継ポイントとして重要な役割を果たした。
この小さな町にあって一日の利用客は、5000人以上だったという。

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写真提供/浅野初松氏 撮影場所不明 

明治末期の蒸気機関車はアメリカ製。

88607号機/当初は民鉄(私鉄)だった九州鉄道が、アメリカのAlco(アルコ)社で明治32年から61両輸入。さらに、北海道や樺太から5両が持ち込まれ、合計66両で昭和の中ごろまで、九州で運用された蒸気機関車。動輪が3個であることから、旅客用であることがわかる。

明治41年/当時の官鉄(国鉄)により九州鉄道の施設・鉄道員すべてが買収され、官鉄は鉄道員になる。
明治42年/買収後民鉄よりの編入、車両の形式称号を一新した際に8550形式とされる。
上の写真8607号機は8550形式の58番目の機関車だ。

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写真提供/浅野初松氏

3100型機関車と浅野氏。写された場所は定かではないが多分門司機関区、もしくは直方機関区と思われる。浅野氏は直方機関区より豊後森機関区開設と同時に赴任してきた。

写真のタンク機関車は3100型で、これは九州鉄道がアメリカのAlco社より輸入した機関車で明治39年より24両が製造されている。
この機関車は輸入直後に小倉の鉄道工場にて水タンク容量や石炭庫等を改造された。(写真この機関車はの水タンクの前面を斜めに切り取って見通しを良くしている)
昭和のごく初期まで走ったようだ。恵良駅開通当時、これによく似た機関車が当時の新聞(豊州日報)に掲載されている。

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豊後森機関区開業45周年誌・豊後森機関区開業50周年誌より

宮原線の営業再開で活気づく。

昭和12年7月、恵良~宝泉寺間が開通。木材の運搬、温泉旅行客、登山客など大勢の人々でにぎわい、豊後森機関庫を中心としてまちは活気づいた。しかし、その宮原線のにぎわいは長続きしなかった。昭和16年12月8日、日本は真珠湾攻撃により太平洋戦争に突入したのだ。玖珠郡内の鉄道は、その影響で恵良、宝泉寺間に敷設されたレールの供給命令が下され運転は取り止めとなる。

昭和29年3月15日、恵良~肥後小国間が開通、国鉄宮原線が営業を再開した。

この宮原線の復活もあり、この頃の豊後森機関区は喜びと活気に満ち溢れた時代だった。

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豊後森機関区開業45周年誌・豊後森機関区開業50周年誌より

豊後森機関庫は宮原線開業で活気づく。

久大線の中継ポイントとし重要な役割をて果たした豊後森機関区。ここで働く200名以上の従業員は、その家族を支え、また、玖珠・九重両町の経済を支えは、その経済効果は計り知れえないものがあった。